「怪奇貸本収蔵館第七号 竹内寛行・編 其三」(2021年5月4日初版発行)

・「地蔵娘(じぞうっこ)2 怪牛魔王の巻」
「ひろみと金剛犬(こがね)は旅の途中、死人の肉を加えた鳥を目にする。
 近くには、宮本無七四という人物の墓が荒らされていて、死体は牛のものらしき毛を掴んでいた。
 二人は牛甚村の宮本家を訪れる。
 宮本家には、娘の信子とクルクルパーの弟、辰夫の二人だけであった。
 信子によると、この村では丑の日には誰かが殺され、その死肉が喰われていた。
 ある丑の日、信子の父は村長に隣村への用事を頼まれ、村境で無惨な死体となって発見される。
 また、彼女の母親も村長の家の用事に出かけたまま、行方不明になり、辰夫は父の死のショックで白痴のようになってしまう。
 金剛犬が村長の屋敷に忍び込むと、雌牛(名前はブチ子)が人肉を食べているのを目にする。
 その人肉の衣類は信子達の母親のもので、村長の屋敷が怪しいことが確定的となる。
 母親の死を知り、辰夫を先祖(宮本無三四)伝来の刀を持って、表にとび出し、信子は彼の後を追う。
 ひろみは、二人の様子を金剛犬に見に行かせ、自分は、村長の妻のお産の手伝うために、村長の屋敷を訪れる。
 村長の屋敷では、人間に化けた雌牛が赤ん坊を産むが、牛が産婆を食べているところを村人に見られ、騒動になる。
 牛達が村人達を食い殺そうとした時、ひとみが現れ、ブチ子を退治する。
 逃げ出した村長牛は復讐を考えるのだが…。
 そして、この村が牛に呪われた理由とは…?」

 絶句するぐらい、奇妙な作品です。
 最初は「雑然」という言葉で、考えを進めていたのですが、「雑然」な作品は他にも沢山あります。
 そこで、他の「雑然」した作品とどこが決定的に違うのか、自分なりに考えてみたところ、普通の漫画で目玉となる要素が全て、裏目に出ている点ではないかと思い当たりました。
 (土俗)メルヘン、凛々しいヒロイン(モンペがステキ)、ゆるキャラな金剛犬(チャンチャンコを着用)、魔物との壮絶なバトル…と、魅力的に見える全ての要素が感嘆するほど、機能しておらず、高揚感を欠いたまま、物語は進行。
 更に、作者が「これではパンチ不足」と考えたのか、ポンタのエピソードやカワウソや狼とのバトルを盛り込むも違和感を増す以外の効果がなく、また、加速度的に荒れていく絵やストーリーが「メルヘン」の化けの皮をどんどんひん剥いていきます。
 メルヘンの皮の下に潜むのは、瘴気立ち上る「いかがわしさ」と「残虐性」に満ちた世界で、あまりの落差にエビぞり必至。
 ストーリーに入り込めないまま、全ては上滑りしていき、気が付いたらラストを迎え、読後、「何、コレ…?」と途方に暮れてしまいました。
 これが竹内寛行先生の「作家性」なのかどうかは読んだ作品が極わずかなので、私には判断できません。
 でも、狙ってできるもんではないことだけは確かで、私の人生でこんなマンガ体験は稀有でありました。
 それにしても、こんな激レア作品が千円程度で読めるなんて、本当に良い時代です。
 洗練とは無縁の作風が逆に斬新で、若い人達にもウケるのではないでしょうか?

 付録ペーパーには、妖奇七郎さん「竹内寛行・鬼太郎から地蔵娘」、出口ナオトさん「おじいちゃんの語る毒々駄菓子メルヘンの世界 地蔵娘」が掲載されております。
 あと、この文章を書くにあたって、菊田ダイ氏「竹内寛行 EXPERIENCE 0」を参考とさせていただきました。「地蔵娘」を「擬似アッパー系」と譬えたのは、慧眼だと思います。

2021年8月19・21日 ページ作成・執筆

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