川島のりかず「首を切られたいじめっ子」(1988年5月6日初版)

 今回は『さっぱり』するということについて考えてみたいと思います。
 まずは、この稿で用いる『さっぱり』するという言葉の定義をはっきりさせておく必要があるでしょう。
 この稿では、
「さっぱり(副詞)〜(後に残る)不快感やわだかまりやごたごたした余計なものが、ほとんど感じられないことを表す」(新明解国語辞典第四版・三省堂より引用)
 という意味で用いたいと思います。

 さて、皆様方は、最近、『さっぱり』したとお感じのことはおありでしょうか?
 アクション映画や時代劇で強気をくじき弱きが助けられ、大団円を迎えた時。
 厄介な問題が解決し、ようやく一息つけた時。
 ダメな男とようやく縁が切れた時。
 魚の目の芯が抜けた時。
 夏の間、苦しめられた汗疹(あせも)や、 散々つんつんしていたイボ痔が引っ込んだ時。
 人によって心当たりは様々でしょう。
 しかし、人間というのは因果な生き物でございまして、トラブルは尽きることがありません。世間の桎梏(しっこく)はますますその締め付けをきつくしていきます。瑣末事は夏場の蝿のようにひたすら湧いて、目の前を悩ましく飛び回ります。
 そのような環境で『さっぱり』しろと言われても、どだい無理な注文というもの。
 さっさと肉体という殻を脱ぎ捨てることができれば、これほど、『さっぱり』することはないと思うのですが、どうも未練というやつがべとべとと付いてまわって、あまり愉快でないところへ堕ちてしまいそうです。
 どうもペシミスティックな方向に向かいがちで、失礼いたしました。
 今回は皆様に『さっぱり』してもらおうと、このマンガを紹介いたします。

 内容は、タイトルと表紙(左側の画像を参照の事)を見れば、一目瞭然でしょう。
 そのものずばり「いじめっ子が首を切られる」話です。
 っていうか、ぶっちゃけそこだけが見所のマンガです。
(けなしているんではありません。褒めてます。世の中、見所のあるマンガがどれだけあるか…)

 前半は、主人公の少女ミュウが、いじめっ子グループの長である正子にあの手この手のいじめを受ける描写が延々と続きます。
 万引きを強要され、店員に捕まりそうになったり…
 友達ができそうになれば、いじめグループによるリンチに加担させられ、挙句の果て、その友人に大怪我を負わしてしまったり…
 いじめグループから先生にちくったと詰責され、画鋲を腕のあちこちに刺されたり…
 最後には、なけなしの小遣いを貯めて買った西洋人形を正子に取り上げられ、バラバラにされてしまいました。
 そんなシーンが、189ページしかないマンガの中で、100ページ近くを占めておりまして、いろいろな意味での作者の『本気(マジ)』(というか、『ルサンチマン』)を感じてしまいます。

 心がどんより曇ってきましたか?
 まだまだ、これからです。

 そして、16年後…。
 結局、ミュウは卒業するまで、正子たちと縁を切ることができませんでした。
 平凡な事務員として日々を送っていたミュウは、ある夜、正子と邂逅を果たします。
 懐かしさに話のはずむ二人。
 正子はミュウに当時、両親が別居状態にあったことを告白し、お互いに過去のことは水に流し、親友として付き合うことになりました。
 しかし、ミュウの彼氏である浩二を正子に紹介したあたりから歯車が狂い始めます。
 それから、浩二と正子が一緒にいる場を幾度もミュウは目の当たりにするようになり、ミュウと浩二の仲は急に冷えていきます。
 正子は昔から全く変わってなく、自分の欲しいものは必ず手に入れようとする人間であることをようやく悟るミュウ。
 疑心暗鬼に心を苛まされますが、それでも、大人らしく話し合いで解決しようとします。
 ミュウは会社の別荘に正子を呼び出し、浩二の件を切り出しました。
 しかし、正子は聞く耳など持たず、人の心変わりを変えることなど無理とうそぶく始末。
 その時、ミュウの目には小学校時代の正子がオーバーラップしていました。
 突然、テーブルの上にあった陶器の灰皿で、正子の横っ面を張り飛ばし、次は、灰皿を脳天に振り下ろします。
   逃げ出す正子を尻目に、台所に向かい、包丁を持ち出すミュウ。
 包丁を両手に構え、正子を追いかけます。
 玄関口で正子に追いつき、積年の恨みを晴らすかの如く、腹部を滅多刺しにするミュウ。
 虫の息になりながらも、逃げようとする正子。
 渾身の力を込めた、最後の一突きが正子を背後から刺し貫きます。
 事切れた正子の死体を別荘まで引きずっていったミュウは、過去に自分の西洋人形がされたのと同じように、のこぎりで両腕と首を切断。
 そして、切断した正子の首を何度も、何度も、何度も壁に叩きつけるミュウ。(画像を参照のこと)
 その後、ミュウは正子の生首を片手に別荘から彷徨い出て、虚ろな表情で「さっぱりしたわ、ヒヒヒ」とのたまうのでした。(画像を参照のこと)


 どうです、皆様方、『さっぱり』いたしましたか?
 今、俗世の汚濁にまみれた皆様のハートは壮大なカタルシスによって洗い清められ、解放感で胸がはちきれんばかりになっていることでしょう。
 まさしくEUPHORIA(『(根拠のない)幸福感』)の境地。
 今なら「生きていて良かった」なんて世迷い事を大真面目な面をして断言することができるでしょう。
 そのような境地のところ、大変申し訳ないのですが、実はこのマンガ、後日譚があるのです。

 一週間後、ミュウは逮捕されます。
「死刑にしてください」と取調べ室で涙を流すミュウ。
 刑事に事情聴取を受ける浩二は、正子に対して恋愛感情がなく、二人の間には何もなかったと話します。
 婚約者に捨てられた正子は、愚痴をこぼすことを理由に、浩二に近づきました。
 元来、独占欲が強かった正子は、ミュウから浩二を奪い取ろうとしましたが、浩二が交際をやめようとすると、「肉体関係にまで進んだ」とミュウに言うと浩二を脅していたのです。
 しかし、結局、人の心まで思い通りにすることはできませんでした。
 その話を刑事から聞いて、愕然とするミュウ。
 そして、雪の激しく降る日、刑務所にミュウの家族が面会にやってきました。
 この事件のため、弟の結婚は破談になり、家族は外出もできなくなっていました。
「謝れ!」との父親の叱責に、ミュウは無言でうつむくのみ。
 腹を据えかねて、「今日限り親子の縁を切る」と面会室を後にしようとする家族に向かい、仕切りの金網に取り縋って、ミュウは涙ながらに許しを請います。
 家族に一生会わない、家にも近づかないから、「わたしのことだけは忘れないで」と嘆願するミュウ。
「刑期を勤めて帰ってくるのを待ってる」と、目に涙を浮かべ、父親も母親も、弟も言いました。
 そして、ナレーション。
「次の面会の日、浩二がやってきた。
 浩二はキミの帰りを待ってるとミュウに言った。
 彼の気持ちはうれしかったが、どうしても受け入れることができず、彼女は断ってしまった。」
 殺風景な独房で、鉄製のベッドに腰掛け、ぽつんとたたずむミュウの姿。
 END

 あれ…
 あれれれ…
 全然『さっぱり』しませんやん!!!!
 読後感は、暗澹の一言。
 身を切るような冷たい木枯らしが、心の隙間を通り抜けていきます。
(BGMは、ビーチ・ボーイズのアルバム『サーフズ・アップ(Surf's up)』より『わたしが死ぬまで(Till I die)』)

 でも…
 でもね、現実ってこんなものではないでしょうか。
 些細なことに感情を暴発させて、後になって、何十倍ものつけを払わされることなんてざらであります。
(わたくし、前の職場でも同じことをやってしまいました。懲りずに、同じことを繰り返し繰り返し人生送っております。)
 新聞を広げれば、大小を問わず、衝動的な動機から世間様を数日間だけ騒がせる事件で溢れております。
 そこにあるのは、訳もわからず這いずり回る人間の闇雲な欲望と、リアリズムの皮をかぶった、下世話なジャーナリズムだけ。

 さて、川島のりかず先生のマンガの結末は、大半が主人公(もしくは、重要人物)の『発狂』という終わり方をします。
(手持ちのマンガで確認したところ、27作品中、10作品が該当します。(注2)あと、ハッピー・エンドは片手で数えるぐらいしかありません。)
 特に、後期の作品には、『発狂』して終わるパターンの目白押しです。
 このマンガもその落ちでいけば、それなりのカタルシスを読者に与えることはできたと思います。
 いじめられっ子が、どんどん鬱憤をためていき、最後に感情を爆発させて、皆殺し…というパターンは、定番中の定番です。
(スティーブン・キングの『キャリー』しかり、パソコンで悪魔を呼び出し、皆殺しの『デビルスピーク』しかり、懐かしの『大魔神』シリーズもその系譜に入るでしょう。)
 いじめっ子をぶち殺して、発狂してエンド…とした方が、(三流怪奇マンガとしては)すっきりしているでしょう。
 また、斯様なシリアスな結末は、子供向けの怪奇マンガにおよそ似つかわしくありません。(『発狂』もどうかとは思いますが…)
 でも、作者はなぜか『発狂』という結末を選びませんでした。(注3)
 ミュウは何故、一線を越えることができなかったのか?
 個人的な推測を述べるとしますなら、『家族』という、人間にとって最後の絆がまだ残されていたからなのではないでしょうか。
 ミュウがこれからの人生に何の希望もなく、人殺しという過去をずっと背負うことになりながらも、生きていられるのも、帰ることができる場所があり、自分を待っている人がいることを信じているから…ただ、それだけのような気がします。
 ミュウにとっては、人との『つながり』だけが心の支えなのでしょう。
 そして、初めから、人との『つながり』がなくては、生きてはいけない『弱い』存在でした。
 ミュウはいじめっ子たちを嫌悪しながらも、その交際を断ち切れなかったのは、結局、誰かに『つながって』いなければならなかったからではないでしょうか。
 そして、その相手は、『弱い』自分を(実際に守ってくれるかどうかは別として)守ってくれるような『強大』な相手でなければなりません。
 ミュウをいじめっ子のグループから引き離そうとする友人もいましたが、彼女は多勢の前にはあまりに無力でした。
 ミュウは彼女に対して罪悪感を感じながらも、『強大』な集団の陰に『弱い』自分を置くことを選んだのでした。
 換言すると、一種の『依存』でもあったと思います。
『依存』なのであれば、また縒り(よ・り)が戻れば、また同じ状況が再現されるのは必至。
 アルコール中毒者が、一時断酒していても、一度飲み始めると歯止めが利かなくなるのと一緒です。
 しかし、ミュウは過去の貧弱な体型の女の子ではもうありません。
 女とはいえ、一端(いっぱし)の大人であります。
 自分の大切なものがまた奪いとられようとしている…小学生の頃は泣き寝入りをするしかなかったのですが、大人の今は抵抗することができる。
 しかし、相手は『弱い』自分にとって『強大』なもの。
 それならば、一番手っ取り早いのは、相手を『破壊』して、『無力化』すること。
 その時の原動力となったのが、〈わたしの中にねむっていた鬼神〉とマンガ内で形容された『ルサンチマン』でありました。
 そして、その相手を『破壊』し尽くした後、首と両腕を切断して、自分の『お人形』にしたのは、『お人形』は〈自分の思い通りになる存在〉の象徴であるからなのでしょう。(注4)
 でも、そこにはアル中患者が自分の妄想と話し合いをしているような、空しさに満ち満ちております。
 ミュウは『お人形』を取り戻すことはできましたが、『お人形』は所詮は単なる『お人形』でしかなく、結果として、人とのあらゆる『つながり』を失い、独りぼっちになってしまうのですから。

 この作品、怪奇マンガの体裁をとってはいますが、内容としては(あくまでも作者的にですが)『リアリズム』を追求した意欲作です。
 また、人間の『惨めさ』というものを強く、もっと強く描写しようとする、作者の(歪んだ)意思も感じます。
 そして、ミュウの『惨め』な運命をマンガという媒体を借りて描写することによって、作者自身が追体験をし、自身の『ルサンチマン』を解消しようとした、というのは穿った見方でしょうか?
 もし、川島のりかず先生のマンガが(全てとは言わないものの)〈悪魔払いの儀式〉(注5)なのであれば、オタクな中学生が現実を飛び越えてしまう『中学生殺人事件』を最後にマンガの世界から消えてしまうのも、何となく納得できるような気がします。
 私としては、川島のりかず先生が無事に〈悪魔払い〉をできたことを祈るばかりです。
 しかし、もし〈悪魔払い〉できなかったとしても、気弱に優しく微笑みながら、他人の邪魔にならぬよう慎ましく、どこかで生きていっているような気が、私にはします。
 人は皆、それぞれの『悪魔』を、それぞれの『絶望』を、それぞれの『地獄』を抱えて、生きていかなくてはいけません。
「ただそれだけのことなんだよ」と、先生ならそうおっしゃてくれるでしょう。


・注1
 川島のりかず先生は、80年代のひばり書房を代表する漫画家様でございます。
 80年代のひばりヒットコミックスに30作近くの作品を残し、大問題作『中学生殺人事件』をショッキング・コミックス(出版社はひばり書房)から出した後、ひっそりとシーンから消えました。
 いまだに消息不明です。

 先生のコミックは「SFミステリー」と銘打たれ、当初は、サイボーグやら異星人やら全体社会やらを取り入れ、SFっぽい内容が多かったのですが、後期(「ちぎれた首を抱く女」が転換期だったと考えております。)に至ると、SF色は薄れ、人間の心の闇に迫るサイコ・ホラー(っぽい嫌な話)が多くなってきます。
 ひばりヒットコミックス後期の三冊、
「フランケンシュタインの男」
「死人をあやつる魔少女」
「首を切られたいじめっ子」
は、集大成とも言える内容となっております。

 ちなみに、大問題作『中学生殺人事件』は現在では余程の巡り合わせがございませんと、入手は不可能なレベルとなっておりますので、わたくし、まだ読んでおりません。
 どれだけ入手不可能なレベルかというと、某Mというマンガの専門店で、買取価格が云万円…。

・注2
『発狂』という結末が多いわりに、現実にありがちな『自殺』という結末は一つもありません。
 自分の命を絶つ勇気がないくらい、『弱い』人間ばかりが登場人物なのも、川島のりかず先生の作品の特徴でしょう。
『イヌノキュウカク』サイトの犬田一さんがいみじくも指摘されました通り、登場人物は皆、〈自分の事しか愛せない卑小な存在〉ばかりなのかもしれません。
 でも、卑小な自分を守ることに精一杯で、自分自身のことしか考えられない『エゴイスト』なのです。
 リストラされ、家族のため、生命保険目当てに電車に飛び込む人間はいても、連合○軍や通り魔殺人鬼、オ○ムの連中で『自殺』をしようとした人間が何人いるというのでしょう。
『弱い』自分を守る為なら、他人をいくら食い物にしても平気な奴等がのさばる世の中。
 弱肉強食というなら、まさしくその通り。
 それが気に入らないと言うのなら、あきらめて食い物にされるか、腹を決めて、俗世からおさらばするしかありますまい。

・注3
 かと思いきや、次の作品であり、川島のりかず先生の最後の作品でもある『中学生殺人事件』の主人公の少年は、家族をぶち殺した後、発狂しちゃってます。
『首を切られたいじめっ子』を執筆されていた頃は、何らかの気の迷いでもやったのかもしれませんね、川島先生。

・注4
 ちょっぴり精神分析ちっくな解説を試みてみましたが、見事に玉砕してしまいました。
 独りよがりな表現に、浅薄な解釈、的外れな主張ばかりですが、一意見として参考にしていただければ幸いです。

・注5
「コルタサルはあるところで、自分は悪夢を見たり、何かのオブセションに取りつかれると、、どうしても振り払えなくなる。ただ、それを短編という形で言葉にすると呪縛から逃れられるのだが、その意味で自分にとって短編を書くというのは〈悪魔払いの儀式〉というようなものであると述べている」
(「コルタサル短編集 悪魔の涎・追い求める男」岩波文庫・p297)

 ちなみに、川島のりかず先生のマンガに出てくる〈悪魔〉は、今生きている『現実』そのものである場合が多いです。
〈悪魔払い〉がうまく成功して、凄まじいカタルシスと高揚に包まれる『フランケンシュタインの男』はいまだに議論の余地の多い大傑作であります。
 が、『首を切られたいじめっ子』の方はほとんど話題にならず、継子扱いなのは、結末のカタルシスの有無にあるような気がします。
 ただ、発行数が少なく、目にした読者が微小だっただけかもしれませんが…。

・注6
 この駄文に関して、犬田一さんの運営されているサイト『イヌノキュウカク』内の、川島のりかず先生に関する文章に多大なる示唆をいただきました。
(興味のある、奇特な方は、是非とも覗いてみて下さいね。)
 示唆を通り過ぎて、換骨奪胎にまで至っていなければいいのですが…。
 このような小欄で大変不躾ですが、深謝の意を表したいと思います。


平成22年1月下旬 執筆
平成25年7月3日 改稿・ページ作成

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