川島のりかず「死人をあやつる魔少女」(1987年12月16日発行/青222)

「雨の日、校庭で落雷に遭うミルモ。
 一時は死んだものと思われたが、謎の発光体がミルモの口から入り、ミルモは生き返る。
 そのことがあってから、ミルモは思ったことを何でも叶えられる超能力を手に入れる。
 病人を治療したり、友人を家族ごと殺した殺人犯を捕まえたり、活躍をする。
 また、キャンプ場で変質者に両親を殺された時には、変質者を念力で殺した後、両親を生き返らせるという奇蹟まで起こす。
 しかし、それを境にミルモは超能力を失ってしまった。
 数年後、ミルモは人妻になるが、、家族と少数の友人を除いて、彼女が超能力を持っていることを信じてくれない…」

 80年代のひばり書房において、独自の世界をつくりあげた川島のりかず先生(私にとっては、正に巨匠)による、後期の傑作の一つ。
 後期の作品と言いましたが、私は川島先生の作品には前期と後期に分けております。
 境目は、非常に大雑把ですが、「ちぎれた首を抱く女」以降を後期と考えてます。
 前期は主人公は大抵、小学生辺りの女の子。線も太く、たまに、大人の女性が出てきても、画力のせいか色気は皆無。ストーリーも思いつくまま、いろいろとやっていて、とりとめがありません。(別世界での同一社会、狼憑き、ロボット女教師、UFOからもたらされる生命の水、超能力による復讐もの,etc)バラエティーの豊富さでは、ひばり書房ではトップだったはずです。
 これが後期になると、画力がアップしたのか、線も細くなり、10代半ばの女子高生を主人公にすることが多くなってきます。それなりに主人公は可愛くなってきます。(「きまぐれオレンジロード」の鮎川まどかを1000倍に薄めた感じ。飽くまでも、個人的意見!)
 また、大きな特徴として、前期の作品では、恐怖の原因はほとんどが外部からやってきております。狂ったアンドロイド、いじめ、家の上に現れた球体、あざの現れた子供を処刑するという社会、それらは主人公自身のせいではなく、主人公は犠牲者として否応なく巻き込まれるタイプのものです。
 しかし、後期では、主人公の心の中の孤独、愛、嫉妬、コンプレックス、憎悪、怨念といったもの(どれも大抵、歪んでいる)が、ストーリー上で大きなウェイトを占め、主人公の内にある様々な感情が、ある時は悲劇や惨劇を呼び起こし、ある時は化け物を産み出す起因となっております。主人公は自分の感情から逃れようともがき、自分の感情に決着を付けようとあがきます。しかし、逃れる術もなく、たいてい凄惨な終結を迎えます。ここで主人公が死んで終わったら、単に悲惨な話なのですが、幸か不幸か、川島先生はそんな道を選びませんでした。主人公に何とか救いを与えようとしたのか、それとも、まだまだ物足りないと考えたのかは知りませんが、発狂して終わりというというパターンがほとんどです。(人の良さそうな先生の写真を見ると、最初の説を採りたいのですが、凄まじい残酷描写を見る限り、どうも二番目の説の可能性も高いような…。)
 何故ここまで狂気にこだわるのか?
 確かに、私達、第三者にとっては、そんな終わり方は救われません。しかし、当人にとってはどうなのか…「救いようがない。でも、救われている。でも、救われていると言えるのか。しかし、他にどのような救いがあるというのだろう…」私達はこの堂々巡りに直面することになります。結局、人は他人の背負っている業を決して理解できないものなのですから…。
「死人をあやつる魔少女」は後期の作品の中で、傑作の一つだろうと、私は考えております。
「救いにあらずが、救い」を極北的に表現している作品として、「フランケンシュタインの男」と双璧であると評価します。また、「卑小な存在である自分が全能感を取り戻そうとする」のいうテーマも共通しておりますので、姉妹作と言ってもいいかと思います。
 でも、こっちの方はあまり評判を聞かないが何故でしょうか?
 確かに全体的な完成度は「フランケンシュタインの男」や「ちぎれた首を抱く女」の方が高いと思います。
 原因は、途中何回か出てくる残酷描写がストーリーのテンポを崩しているせいかもしれません。
 でも、スプラッター描写がないと、何か物足りないし…こいつは微妙な問題だぁ…。

平成16年8月15日 もととなるページ作成
平成27年1月20日 ページ作成・執筆

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